きいろいちゅーりっぷ

日々の細々を書きます。

人の悪口を言ってはいけない理由

先日、某リアル恋愛番組に出演していた女性プロレスラーさんが、誹謗中傷を理由にお亡くなりになったというニュースを観ました。私はその番組の別シーズンしか見ていなかったので、彼女のことについて話題にするのは避けますが、時を同じくして、大好きだったYoutuberさんが詐欺まがいのことをして炎上、活動停止になってしまいました。

頭の中で考えたごちゃごちゃを整理すべく、SNSで発信する自由と責任についてと、そもそもなぜ人の悪口を言ってはいけないのかについて、この場を借りてまとめてみようと思います。

 

1.SNSで発信する自由と責任について

 

SNSとは、「人と人との社会的な繋がりを維持・促進する様々な機能を提供する、会員制のオンラインサービス」SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)とは - IT用語辞典 e-Wordsのことです。よく耳にするところとして、”Twitter”や”Instagram”などが挙げられます。主に友人同士のコミュニティサイトとして、趣味嗜好の共有の場として活用されますが、「呟き」という言葉を生み出したTwitterに関しては、「呟く」程度に意見を発信できる手軽さから、一般の人であっても「炎上」していたり、アカウント凍結(Twitter本社から、使用停止させられること)させられたりは日常茶飯事で起きています。

 

少し前に、歌手のきゃりーぱみゅぱみゅさんが政治コメントをした際、政治関係者から揶揄されたニュースが話題になりました。その件に受けて、お笑い芸人であるウーマンラッシュアワーの村本さんが”note”というサイトにて出された記事「発信するということ」は特に秀逸だなと思い、とても印象に残っています。

note.com

今確認したらnote購入になっていたので、これ以上はかけないのですが、現代における「発信の自由」は過去の成果であるということ、日本という国の民主主義に対する意識について書かれていることを読めば、発信することにおいてもっと積極的になれると思います。

 

とはいえ、私がここで言いたいのは政治に絡んだことではなく、発信することがこれほどまで拡大された現代で及ぼす、責任についてです。「匿名」でやり取りができるようになった今、人は矢面に立たされていると言っても過言ではありません。ですが、その逆もまたしかり。「匿名」であるがゆえに言いやすさは増します。結果、他者への配慮に欠けた文章をそのまま送り付ける人が増えました。

 

5月28日付の毎日新聞のコラムで、「枕草子」の作者、清少納言を引き合いに、現代のSNS文化に苦言を呈していたのがおもしろかったです。

 

清少納言は大のゴシップ好き。「人のうわさ話ほどおもしろいものはないのに、なぜしてはいけないのか」と書き残していたそうで、でもやっぱり「その悪口が本人に聞かれて、恨みを買うのはごめん」らしく、1000年以上経った現代の人間性とそれほど変わらない感性はなんだかかわいらしく見えます。しかし、そんな彼女もびっくりの、誰しもが光の速度で送り合える現代になってしまい、さらにそこに「匿名性」までも追加されてしまいました。名無しのごんべえさんが、矢をその人の家に直接放つことが出来る時代になった、と言うわけです。

 

苦言部分はさておき、上記の内容で考えると、確かに社会のつながりが様変わりしているのにも関わらず、人間性が変わることがないのでは、それは何とも言えない気持ちになります。

 

話は変わりますが、普段学校図書館の司書として勤めているのですが、全国の学校と同様に「朝読書」をしています。朝会時に15分間、教室で行う全員読書のことです。私物の本を許可する代わりに、出したルールが「みんなの前で音読できる本かどうか」ということ。そうすることでNGな本は持ってこなくなります。

 

SNSも世間にさらす前に、一度、周囲の人間に話せる内容かどうかを考えてみるべきだと思うのです。生徒会室によくあったご意見箱は匿名だから、意見がしやすかった。けれどそれは見るメンバーが限られているし、入れる際に絶対にばれないという保証もないものだった。いつでもどこでも指先ひとつで発信できるSNSの手軽さが、「自由」を運んできてくれる一方で、「責任」までどこかへ連れ去ってしまっているのかもしれません。

 

2.そもそもなぜ人の悪口を言ってはいけないのか

 

小さい時に誰しもが習うことです。友だちと喧嘩をしたときに、言葉を持たない私たちは「バーカ」というようなどこで学んだのか発生源不明の、ザ・悪口を発します。その際に、大人から「友だちを悪く言ってはいけないよ」とたしなめられるのです。

しかし、大人になるにつれて悪口は進化していきます。王道の悪口ワードより、皮肉をきかせた言葉や、意味を含んだ物言いになっていきます。悪意をしっかりもっているのにそれ隠しながら相手に伝えるスキルが身についていってしまうのです。

中には悪口ではなく、本当のことだから言ったまでだ、という人もいるかもしれませんが、事実を伝えてくれと本人が頼んだわけでもないのに、自分軸の価値観で「言ってあげた」と思っている人は相当、頭が悪い人です。少し頭がいい人は、その心の奥底には、「悪意」があるとわかるからです。

 

話が広がってしまうかもしれませんが、「いじめ」や「ハラスメント」に対しての線引きは「被害者側の意識」に引かれるようになりました。本人がいじめられたと思ったなら、それはいじめであるというように。言葉や態度なんて、結果にすぎません。そんなものよりもその人の「心」に「悪意」があったのかどうか、が焦点になるのです。でも、加害者にはその意識は欠如していますし、あったとしても、身を守るために嘘をつくのです。どんなときも悪意によって傷つけらるのは「心」です。

 

話を戻しますが、人に悪口を言うと、どうなるか。まず、言われた本人は傷つきます。周囲は同調はしてもあなたのことを「悪口を言った人間」と捉えます。悪く言っていた人間は当然のようにあなたを嫌います。周囲は、自分も悪口を言われることを恐れます。もしくは、自分もあなたのようにあなたの悪口を言ってもいいんだと思います。

 

あなたは友だちを、悪口を通して仲良くなってしまっているので、本当の友人関係をそこには求めることが出来なくなります。結果、孤立します。嘘にいい嘘、悪い嘘があるように悪口にも良い・悪いは存在すると思います。たとえば、職場の上司から理不尽に叱られた同僚に、上司を悪く言うような発言をおどけてして見せ(もちろん本人には見えないように)、励まそうとすることは、褒められたものではありませんが、誰かのためを思っていったものです。

 

人と関わることばかりの人生で、幸せを願うのなら、「悪口」は百害あって一利なしなんだということを知るべきです。巡り巡ってわが身に帰ってきます。それは迷信みたいなあやふやなものではなく、きちんと理由があってのことなんです。私はそう思うのです。長くなってしまったので、ここでやめますが、今度気が向いたら、「悪口を言ってしまいそうになるときはどうすればいいのか」についても書ければと思います。

 

これはもうもはや婚活垢ではありませんね。