きいろいちゅーりっぷ

日々の細々を書きます。

詩について

高校くらいまで、詩を書いていた。

日記をつけるよりも簡単だったから。

他の人の詩を読んだことはなくて、教科書に載っている詩を読んでも、自分のそれと結びつくものではなかった。

つまり、私にとって詩ではなかった。どちらかというと、歌詞に近い感覚とでもいうのだろうか。実際、メロディーもつけていたのだ。ただ、五線譜に書き起こせないので、そのうち曲は消え、文章だけが残った。ときおり読み返したり、手直ししたりを繰り返したが、見返すことはなくなった。PCのWordファイルの中に、雑然とデータとしてある状態。

 

先日、久しぶりにPCを開いた。壊れかけの、ブーーーンという重い音とともに、画面が光る。

すると、でてくる。でてくる。

泣きながら、書いたものもあった。その記憶だけはある。

でも読み返してみると、あの時の気持ちはよみがえってこない。

ごめんね、私。ちょっと何言ってるか分からないわ。

 

詩を書くときは、いつも心が乱れているときだった。そして、この感情はいつまでも続くものではないと理解していた。理解しながら、消えてしまうまえにこの気持ちをここに残さなければ、と必死だった。文章にすれば、きれいごとになってしまうのが嫌で、でもそのまま書くと、事の矮小さにがっかりしてしまう。自分の心に合う言葉を知らないから、詩という形態にたどり着いたのだと思う。

 

社会人になり、上司からの勧めでボランティアグループに所属した。そのなかで詩の読み合わせの時間があり、おっかなびっくり「詩」というものに触れたのだった。学生時代の真似事の詩はすっかり記憶になく、苦手意識は強かった。詩は高尚なものと思っていた。けれど毎月、自分に合った詩を探すうち、他の人の音声で詩を聞くうち、いつの間にか詩を好きになった。

そのなかで、分かりやすい言葉で書かれた詩のほうが、読み解くのがむずかしいことを知った。また抽象的であると、その真意を逃しやすい一方で、自身を重ねる余地があると思った。

時代を知らねば分からないものもあるし、言葉の響きだけがひたすら美しく、作者の意図なんて気にも留めないでいられるものもある。

読み手の解釈次第といったらそれまでだが、短い言葉の羅列だからといって、軽々しく読むものでもない。

 

木漏れ陽のような、やわらかな光が生んだ影のように、日常生活からこぼれおちた感情を読む詩がすきだ。どんなときでも、1枚の美しい原風景の絵画を眺めるような心地になれる。かつての私のように、誰かを必要ともがくものでなく、ただ寄り添ってくれるもの。

 

けれど、時が過ぎて、自分を過大評価も過小評価もしなくなった今、PCのなかの私の言葉を覗いてみると、詩ともいえないそれらには、私しか見えない、まぶしいくらいの光が見えた気がした。