きいろいちゅーりっぷ

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【映画】トゥルーマン・ショーを観て(※ネタバレ)

1998年にアメリカにて放映された「トゥーマン・ショー」を先日、Netflixで観たのでその感想を。

主人公トゥーマンは、普通に働き、恋をし、結婚もした。しかし、彼は誘導され、そのすべてをテレビ放送されていた―――。

番組プロデューサーのクリストフは、演技ではなく真実の人間の姿を撮りたいと願った。彼は、孤児であったトゥルーマンを番組名義で引き取り、生まれた瞬間から1日も欠かさず24時間ずっと、撮影し続けた。それは全国220か国で放送され、トゥルーマンの成長に伴い、人気番組になりあがっていた。もちろん主人公のいる島全体がセットで、彼以外はすべて役者だ。天候さえも人為的で、太陽の昇降や雨、嵐もスイッチ一つ。

 

妻も女優で、彼女はトゥルーマンが学生の頃に、「偶然」を装って出会い、結婚までかこつけた。このように彼は周囲からの故意的な事象により、人生を誘導されながら歩いてきた。

 

物語の序盤で、父親を失った時を回顧する場面がある。ボートで二人乗りをしていたときに、運悪く嵐に見舞われ、目の前で父親がなくなったのだ。しかし、これは当時、幼かった彼が抱いた「探検家」という夢を壊すために、精神的に島から出られないようショックを与えるためのものだったのだ。以来、彼は海恐怖症になる。

彼が誰かに監視されていると気づいてから、物語は転がるように展開していく。きっかけは死んだと思っていた父親が突如自分の目の前に現れ、何者かに攫われたことと、学生時代に恋をしたシルヴィアという女性が言った「あなたのすべては放送されている」「わたしを探して」という言葉。

気付き始める場面は、恐怖でしかない。自分を知りえないはずの人物から名前を呼ばれる、妻の突然始まる誰かに向けた商品説明、島を出るための飛行機のチケットが取れず、バスはエンスト、車で向かえば渋滞にはまる。まるで自分をこの島から出させないようにするために。

映画視聴者として観ているのか、番組視聴者として観ているのかだんだんわからなくなってくる。ただ、時たま映る番組視聴者の主人公を熱烈に応援する姿は、とても気味が悪い。彼らが興奮気味で見ることにより上がる視聴率が、トゥルーマンをここまで追いつめているのに、そのことにまるで気づいていないのだ。

いや、私自身、こうやって興奮しながら観ているのだから、同罪なのかもしれない。

 

もし、自分がいままで過ごしてきた毎日が作りものだったとしたら……。

こんなに恐ろしく、孤独で、何もかも信じることが出来ないようなことが他にあるのだろうか。ようやく、海を克服し、嵐にも負けなかった主人公は、小舟で空にぶち当たる。(空だと思っていたものは壁だったのだ)そこから伸びる非常階段。

 

親のように彼をずっと見てきたクリストフが、天から声を与える。「この世界が君の真実で、外の世界の方が嘘だ。」「ここにいれば危険はないのだ」と。すべてを見てきたから、君のことは何でもわかるというクリストフに、トゥルーマンは「僕の頭の中にカメラはない」と言い、そこから何も発さなくなる。「何か言え!」と声を荒げるクリストフに、トゥルーマンは振り返り、彼の挨拶時の定番の口癖を言った。

「おはよう!そして会えない時のために、こんにちはとこんばんは!」

笑顔で、まるでショーの終わりだとでもいうように。そうして彼は呆然とするクリストフを置いて、外の世界へ続く扉へと一歩踏み出した。

 

トゥルーマン・ショー」という番組名を振り返り、それはクリストフなどの制作側が操っていたかのように思われたが、最後の主人公は「自分」という存在を決して見失わず、だれにも操作されず、自らの意思で行動した。

人は行動を周囲の状況によって変化させて生きていくものだ。「別の大学にもし進学していたら?」「もし姉がいたら?」「もし私が男だったら?」など妄想を繰り広げることはだれだってあるだろう。自分の力ではどうすることもできない境遇に涙したことだってあるかもしれない。

 

しかし、トゥルーマンはすべてを操作されていたのにもかかわらず、彼の心は誰にも縛られなかった。人の心はもしかしたら、もっとずっと固くて強いものなのかもしれない。そう思わずにはいられない映画だった。