きいろいちゅーりっぷ

日々の細々を書きます。

ぜんぶの私。

誰かと一緒にいても、一人でいることに変わりはなく、

それは永遠にきっとそうだ。

 

でも、悲しいことではない。

自分を自分として、それ以上でも以下でもなく

捉えることができれば、それでいいのだ。

 

 

恋人と付き合ってから、あと2か月で1年を迎える。

10か月前のあの日、この人とずっと一緒に入れますようにと切実に願った、あの気持ちは嘘ではなかったけれど、確かに落ち着いてしまったのも事実だった。

 

別れるかどうか、がずっと付きまとっていて、

冷静になればなるほど、その判断が鈍っているような気がしてならない。

 

もちろん彼といるときは、そんなことちっとも思わない。

いないときに不安になるということでもない。

ただ、一緒にいなくても平気だな、と気づくのである。

 

初めて出会えた、私のすべてを肯定してくれる恋人でも、こんなふうに考える自分は変?

 

 

私は、母と父と同居している。

同居、という言い方に違和感を覚えるのは、実家を出たことがないからだ。

いつも仕事の都合で不在の父と違って、常に一緒にいる母とは、仲が良い。

仲が良すぎて、遠慮がなさ過ぎてしまう。

だから、母といるより、一人で過ごす方が楽だなと思うことがある。

 

家族でも、長く一緒にいるとこんな風に思うのだ。

だったら、私は誰といたって、きっとずっと孤独を感じるのではないのか。

好きとか嫌いとか儚い感情を優先するよりも、大切なことはあるはずだ。

 

けれど、それがなんであるかが分からない。

世間体?

家族?

自分?

何かを通すと、何かをつぶすことになる。

選択すればするほど、後戻りできなくなる。

 

 

後輩の左手薬指のリングを見て持った、くすぶった感情も、

恋人の言葉に疑いのまなざしを向けてしまうことも、

母と喧嘩して家を出たい衝動も、

そうすれば悲しませてしまうだろう先読みも、

ぜんぶ、私だ。

 

だから、全部手に入れたい。

たとえそれらが、相反するものだとしても。

感情のままに自分らしく生きていくと、

自分の勝手さに躓いてしまうから。

 

自分を知ると、生きるのが楽になると経験上、知った。

フラストレーションもなくなってきた。

感情の起伏が疲れるようになってきた。

だれかにとっては、つまらない人生かもしれない。

けれど、

 

 

私は私を信じていきたい。だから、

「きっと大丈夫」

そう声を掛け続けたい。